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動画Σ林修の今でしょ!講座大河の主役に!人生ドラマがスゴイ 6人の武将

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林修と本郷和人が、それぞれ大河ドラマにしたい3名の武将を挙げてプレゼン対決。授業を聞いた会場の50名と学友3名の計53名が、どちらの大河ドラマを見たいかで判定。勝敗を決める。

実は天才経営者 織田信長

 

林修が、今まで描かれなかった織田信長についてプレゼン。信長の軍事力の秘密は、莫大な資金力。信長は、寺・城・港を使って独自の財源を確保した。

戦国時代、公家・寺社・大名が土地を支配していた。当時の寺は全国の金貸しの元締めようなもので、一部の地域で経済・政治・金融を支配していた。信長は莫大な領地を支配していた寺社を攻撃することで、寺社へ集まる金を止める。信長は商売を自由にして、寺の財源を断った。

織田信長は、城を使ってお金を集めていた。信長は那古野城から始まり、大阪城に至るまで何度も拠点を変えている。これまで、信長は天下統一の要となる場所に城を移していったとされているが、林修は「信長は城下町を作って商人を集め、納税させるために拠点を何度も移していった」などと話した。本郷和人は、「信長は自分の城を造ることで土地の価値を上げていた」などと述べた。さらに信長は、城を一般公開し入場料を徴収していた。

信長は「港が流通の中心になる」と注目。信長は、堺・大津・草津の港をおさえて貿易を独占した。後に徳川家康もこの考えを真似し、江戸の発展につながったと言われている。港に注目する一方、信長は街道を整備して街道沿いに一定間隔で店を設置。パーキングエリアのような休憩所を設置し、物流の基盤を作った。

真田幸村と同じ年に生まれた影の天才 立花宗茂

 

本郷和人が、立花宗茂についてプレゼン。豊臣秀吉に「西国最強の男」と言わせた立花宗茂。立花宗茂は、絶対に人を裏切らず逆境すぎる波乱万丈の人生を歩んだ。

九州の名家の長男として誕生した宗茂。しかし実家の高橋家の跡を継げず、立花家に養子に入った。養子に行く際、父の高橋紹運から「お前は高橋家の人間ではない。俺の首を獲りに来い」と、刀を渡されながら言われたという。さらに立花家では、立花道雪という九州を代表する名将が、宗茂を待っていた。その道雪から、宗茂はスパルタ教育を受けることになった。宗茂の妻・ぎん千代も、鬼嫁として気が強かったという。

立花道雪からスパルタ教育を受けた立花宗茂。天下統一を目指し九州征伐へ向かう豊臣秀吉に対抗し、島津家が九州征伐を始める中、立花道雪が病死する。道雪の死に立花家の力は弱まり、島津軍が進軍した。そんな中、宗茂の実父である高橋紹運が立ち向かったが、あえなく討ち死にする。高橋紹運は、息子の宗茂がいる立花山城に島津郡を進軍させないため、岩屋城に籠城して豊臣秀吉の援軍が来るまで時間稼ぎをした。

立花宗茂は島津軍を破り、豊臣秀吉直属の大名となる。しかし関ヶ原の戦いで西軍に参加した立花宗茂は、西軍の敗北により一介の素浪人になってしまった。浪人になってからは、妻・ぎん千代も亡くなった。全てを失った立花宗茂だったが、53歳のときに徳川秀忠に取り立てられ、大名として奪われた領地を取り戻した。立花宗茂は、関ヶ原の戦いで奪われた領地を取り戻した唯一の武将となった。領地を取り戻してから、宗茂は妻・ぎん千代のお墓をたてた。

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会場の53名が、立花宗茂と織田信長、どちらの大河を見たくなったか判定。判定の結果、本郷和人がプレゼンした立花宗茂が選ばれた。

朝廷を倒した日本唯一の革命家 北条泰時

 

林修が、日本で唯一革命に成功した北条泰時についてプレゼンする。1183年、北条義時の長男として生まれた泰時。その泰時が11歳のころ、腹違いの弟が生まれた。泰時は長男だったが側室の子だったため、後継者になることができなかった。跡目争いに勝利した泰時に、弟は逆らい続けたという。

39歳で幕府の総大将となった泰時。当時の日本は、東側を支配する鎌倉幕府と、西側を支配する朝廷に分かれていた。幕府の総大将である泰時は、歴史上唯一となる朝廷との戦いである承久の乱に勝利。日本を一つにまとめた。承久の乱で後鳥羽上皇は、武士を集めて北条義時を討つよう指示。それを知った義時と泰時の叔母にあたる北条政子は、泰時に白羽の矢を立て、朝廷を倒すよう命じた。義時より影響力のあった政子にも命令され、泰時は嫌々ながらも朝廷を倒しにいった。

朝廷を倒しに行った北条泰時。向かう朝廷には天皇もいた。朝廷を倒すよう命じた北条政子は、天皇が現れた場合には「弓の弦を外して降参しなさい」と泰時に命じていた。泰時は政子の無理難題を全て受け入れ、朝廷を倒し革命を成し遂げた。

鎌倉時代、当時の日本には一部の貴族に対する法律しかなかった。そのため、泰時が指揮を取った時代には、地主や武士の間で争い事が増加していた。そこで泰時は、51の条文が記された日本初の独自の法律、御成敗式目を定めた。この御成敗式目は、松尾芭蕉も褒めている。林修は、御成敗式目には武家社会の法を定める以外にも、武士の間に撫民の意識を広める目的があったと説明した。

徳川家康を天下人に導いた男 本多忠勝

 

本郷和人が、徳川家康を天下人に導いた本多忠勝についてプレゼン。本多忠勝がいなければ家康の命はなかったと言われるほどの豪傑で、出陣した戦は57戦無敗。

本多忠勝が愛用していたという蜻蛉切という槍を紹介。長さは6mで、槍に止まったトンボが真っ二つに切れたことが、蜻蛉切の名前の由来とされている。

本多忠勝が23歳のころ、姉川の戦いが起きた。迫り来る1万の敵兵に退却を考えた徳川軍だったが、それを知った忠勝は思いもよらない戦法を取る。忠勝は1万の敵兵に1人で突撃し、無傷で生還した。徳川家康の尻に火をつけるため、1万の敵兵に単騎で突撃したという。1人で突撃した忠勝を救おうと、徳川軍は攻めに転じて戦に勝利した。

本多忠勝が37歳の時、小牧・長久手の戦いで2万の豊臣軍に対し忠勝は500の兵で戦った。忠勝は敵兵に対し馬に水を飲ませて余裕を見せることで、豊臣軍を挑発。忠勝の器の大きさに驚いた秀吉は、軍を退却させた。

織田信長が徳川家康に対し、「最強の武将は誰だ」と尋ねたところ、家康は「織田信長様以外にはございませぬ」と答えた。しかし本多忠勝に信長が同じ質問をしたところ、忠勝は「家康公以外ありえませぬ」と答えたという。

晩年、病で床に伏した本多忠勝。死を覚悟した忠勝は、家康への辞世の句として「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」という歌を読んだ。忠勝は、忠義よりも「志からではなく見た目の形から武士の正道に入るべし」という心得を大事にしていた。

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家康が真田幸村より恐れた男 島津義弘

 

本郷和人が、島津義弘についてプレゼン。島津義弘は、戦で大将級の首を最も多く討ち取った武将。数多くの戦で活躍し、ついた異名が鬼島津だった。家康は真田幸村よりも義弘を恐れたという。

関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康。島津義弘のついた西軍は敗北したが、義弘は家康に死をも覚悟させるほどの恐怖を植え付けた。義弘は、300人の兵で家康本陣をめがけて敵中を突破した。義弘は合戦の最中に全く動かなかったが、西軍が敗走した際に後ろに撤退せず、家康本陣めがけて突撃。本陣を割って撤退した。義弘は、10人余りが敵の足止めのためその場にとどまり、全滅するまで戦い続ける捨てがまりという戦法を用いた。義弘は家康に恐怖を植え付けることで、島津家を存続させることを考えた。

1592年、朝鮮出兵に参加した島津義弘。敵大将を倒すなどの活躍で、朝鮮兵にも鬼島津と呼ばれ恐れられた。義弘は日本に100通以上手紙を出しているが、そのほとんどが妻へのラブレターだった。本郷和人は、「島津義弘の真骨頂は年齢を重ねてから。高橋英樹くんに演じてもらいたい」などと話した。島津義弘は朝鮮出兵に、猫を7匹連れて行っている。しかしただ可愛がるだけでなく、猫の瞳を時計代わりとして使っていた。

黒田官兵衛よりも天才軍師 河井継之助

 

林修が、天才軍師の河井継之助についてプレゼン。1867年、大政奉還が行われ幕府が終わろうとしていた時代、河井継之助が仕える長岡藩は約100億円の借金を背負っていた。藩を救うため、河井継之助に白羽の矢が立った。河井継之助は、暴落していた米を買い、高く売れる場所で売ることで藩の財政を好転させた。河井継之助は、数の多い下々の者がお金を使うようになれば、お金が回り経済が活気づくと考えた。河井継之助の財政改革により、約100億円の借金が約100億円の黒字に回復した。

1868年の戊辰戦争。河井継之助の長岡藩は、旧幕府軍につくか新政府軍につくか悩んだ末、継之助は今までにない方法で藩を守ろうとした。継之助はどちらにもつかず、中立を考える。継之助は当時最高の武器を仕入れ戦の準備をしながらも、粘り強く新政府軍との交渉を進めた。しかし新政府軍との戦闘になり、長岡藩約1300人以上と新政府軍約4000人以上が激突。継之助が小千谷市で戦闘中、長岡城が奇襲により陥落したが、長岡城に隣接する八丁沖という底なし沼を敢えて渡り奇襲を仕掛けることで、長岡城を取り返した。

河井継之助は、長岡の街を火の海にする焦土作戦を実施。しかし継之助は民を大事にしていたため、焦土作戦を強行できずに中止した。継之助は長岡を火の海にしたということで、地元の一部の人に嫌われ何度もお墓を荒らされている。

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